猫物語38 その苦難こそが君を光り輝かせる!

 空には、下弦の月がかかっている。トムは漆黒の闇を見据えていた。

 (私は今ネズミにも劣る。物理的に自由がない点では、犬にも猫にも劣る。視点を間違えたら後は、発狂しかない。二ーチェはこの戦いに負けた。私は負けられない。

 目指すは、カントの心境だ。自己の内面への道を歩き通すには、師匠が必要だ。

 私は、「21世紀の対語」のこの人を心の師としよう。ダンテの神曲だって師がいなければ心の迷い道に途方に暮れたろう。

 私の師匠となる人は、とかく噂が多い。非難中傷の嵐だ。でも、私は、そんなことには惑わされない。真実なんてものは、よっぽど目を凝らさないと見えはしない。

 今の私にとって我が師の言葉は命綱だ。この内面の深い森は師なくして歩めぬ。幽閉された私にとってこの苦境を打開するのは自己の内面への道だけだ。この未踏の道を私は走破する。

 私は二チェのように発狂するわけにはいかない。これは私の勘だが内面の道を歩むには、自分に誠実であること、そして何より他者に誠実であるべきだ。

 醜悪は内面の道を歩く水先案内人にはならない。善美こそが内面の道を歩く水先案内人だ!)とトムは深く思った。

 30年の歳月が流れた。

 城から遠くの方で車のクラクションの音が聞こえた。「アルバートだ!君達!この任務は終わりだ。この城は、解放される。御苦労だった。それぞれの持ち場にもどって精算してくれ給え。それプラスボーナスが与えられる。以上!」とアルバートは厳かに言い渡した。

 アルバートは城をかけ登りトムの部屋の前に立った。アルバートは丁寧に手袋を脱ぐと、おもむろにドアをノックした。「トム、アルバートだ。ドアを開けてくれ!君の幽閉は解かれた!ABコンシェルンの総師としてこれからは全責任をとってもらう。」とアルバートは反応のないドアにイライラしながら声を張り上げた。ドアがカチリと開いた。

 アルバートは開かれたドアに向かって「トム、幽閉は解かれたぞ!今日からは自由の身だ!」とアルバートは叫んだ。ドアが音もなく開いた。アルバートは遠慮会釈なく部屋に足を踏み入れた。「トム、開放だ。御父上は、10年前に亡くなった。後は私が引き継いだ。悪いが本部の金庫は空だ。君は無一文というわけだ。幽閉が解けても、どんなに君の志が高くても、金がなければ何もできないさ!それより先に君は民衆の怒りの鉄拳を喰らうだろう。

 君は湯水のように金を使う浪費家ということになっている。酒と女にだらしなくクスリで廃人同然と言うことにもなっている。な〜に!真実なんてどうでもいいのさ!ちょっと事実を捏造してネットで拡散してやれば人一人の命運なんざ、お茶の子さいさいさ。ABコンシェルンの御曹司は冷酷で金喰い虫で、人の人生なんか虫けらほどにも思っちゃいないとイメージを植え付けるだけでイメージは一人歩きする。真実なんて見極める眼を民衆は持っちゃいない。民衆は馬鹿だ。民衆は君を殴打するだろう。トム、君は大馬鹿者だよ!

 平等なんて人間にあるはずがないじゃないか。人間は生まれた時から支配するものと支配されるものに分かれているんだ!トム、君はせっかく支配する側に生まれてきたのに生命の尊厳などと言う思想にかぶれてしまって何もかもを失ってしまった。すべてを失うだけじゃなくてもっと酷いことになってしまった。

 トム、君は大馬鹿野郎だよ!せっかくの自分の強運を捨ててしまって。民衆なんて愚かでいいんだ。民衆なんてクズで浅ましい地面をはい回る虫だ。その虫に君は倒される。私の代わりにだ。君は殺される。私達の代わりにだ。

 平和主義の君をだ。民衆は眼があっても何も見えていない。事実がどうかなんて見ちゃいない。民衆は、愚かでちょうどいいんだ。」とアルバートは言った。

 「話は、それだけかい?」とトムから口を開いた。

「アルバート、私の正義を誰も知らなくていいよ。私が知っているからね。私が何者かを何をしたいかを私は知っている。私が知っていればいいよ。それで十分だ。

 言っておくが、民衆は決して愚かじゃない。民衆は健気だよ。民衆は深い哲学に目覚めて賢明になった。私は民衆を尊敬する。這いつくばっても這いつくばっても価値を生みだそうとする民衆を私は愛する。

 アルバート さあ 後は引き受けた!これからはABコンシェルンの総師として立ち上がるよ。そう、私は正真正銘の裸の王様だ。君は私のすべてを持ち去ればいい。私は私がいるだけで十分だ。」とトムは毅然と言い放った。 

 それを聞いてアルバートは鼻でせせら笑った。

「これだけは言っておく。特に今の国連のトップは手強いぞ!確か、フランクとか言ってたな。君の真実を見極められるかな?君は孤独の中で一人淋しく死んでゆくことになるのさ。君は平和なんていう絵空事にうつつを抜かしたばっかりに金もなく路頭に迷うのさ。ハハハ。これからは自由の中で這いつくばって生き給え!」とアルバートはトムを見下して言った。

 それを聞いてトムはニッコリとほほえんだ。「そうだね。そうするとアルバート、君は私が失意の中で死んで行くと宣言するんだ。私はね、この幽閉された30年間をありがたいと思っている。十分、お金に左右されない生活をさせてもらえた。それも刑務所や石牢でなくフカフカのじゅうたんの上でだ。私はこの幽閉生活をするにあたり深く考えた。どうすればすべてを生かせるかをだ。それはそれでゲームのようだったよ。

 私は30年の間に精神を鍛え頭脳を鍛え体力を鍛えたよ。きらめく天座の星は皆私の元に降り来り一巻の名画を見せてくれた。

 ベートーベンの歓喜の歌は私の生命の底に流れていたよ。戦うのは私の闇が相手だった。決して外から来るものではなかったよ。

 アルバート、悪ぶるのはよしてくれ!君のおかげも大きいんだ。私が自己の内面の道を走破できたのは、ひとえにその悪口のおかげだ。一歩間違えれば狂うかもしれない。この果てしない道の中で悪口さえも我が道を開いてくれた。ありがとう!私は万天の星の一座に志でなれたよ!私は、どこまでも、自分が何者であるかを知っている。それで十分だ。

 アルバート、私のものはすべて持って行き給え!私は私がいれば十分だ。いつか天杯は慈雨で満たされるだろう。

 絶望のどん底で私は希望を見いだせたら自分は偉大な人間だと思い詰めて私は励んだよ。私は地を這いずり回りながら心に希望の火を灯し続けた。

 アルバート、苦難こそ、ありがとうだよ!私は私の人生に感謝する。」とトムは一気に話し終わった。

 アルバートは呆然とした。(えっ!コイツは、何を言っているんだ。コイツは頭がおかしくなったのか?オレに身ぐるみ剥がされて気が狂いやがった。所詮、おぼっちゃまだからな!オレに尾っぽをふってありがとうだと笑わせるない。恨まれてもありがとうと言われる筋合いはない。)とアルバートは思った。

 トムはやわらかい声でアルバートによびかかた。「アルバート、本当にありがとう!」とトムは心を込めて言った。それは、岩板に爪を立てて生きてきたトムだからこそ言える一言であった。

 アルバートは、もう、これ以上

狂人には、つきあいきれないとそそくさとドアを開けて城を出ていった。

 その背中にトムが「必ずしあわせになるんだぞ!」と叫んだ。そしてトムは温かい師の言葉を胸に立ち上った。